名もない小さな墓 峯村米子
きいてくだい。柏原仁之倉の永寿院の片すみにある、名も刻まれていない小さなお墓の話を―――。
ほんとうに、「ここがそうだよ。」といわれなければわからないような、苔むした小石を並べてあるだけのお墓。でも、時折、庭先の花や道ばたで摘んだ野のはなが供えられています。
この小さなお墓は、「平井シゲ子ちゃん」という、ニ歳になったばかりの女の子の墓なんです。
シゲ子ちゃんのおとうさんとおかあさんは、となりの国の朝鮮の人で、日本が世界を相手に戦争をしていた、今から五十年ほど前、この仁之倉にやってきました。(そのころの朝鮮は、となりの国ではなくて、日本の一部にされていました)
平井さん夫婦は、原田正雄さんのうちの物置きをかりて住んでいました。もう日本が負けるんじゃないかとひそかに思っていた人もいたころなのですが、仁之倉村の上の方では、戦争に使う鉄をとり出すための「赤ベト」掘りの作業が進められていました。大ぜいの人を集めて、それはたいへんなさわぎでした。平井さん夫婦は、日本各地の
炭鉱やら、ダム工事やらの仕事を転々とし、仁之倉へは、「赤ベト」掘りの労働者としてやってきたのです。
この仁之倉で、シゲ子ちゃんは、生まれました。大家の原田さんや近所の人たちは、産婆さんを呼びにいってくれたり、お湯をわかしてくれたり、とてもよくしてくれました。
シゲ子ちゃんは、みんなにかわいがれて大きくなったんですが、二歳になった年の春、カゼがもとで、高い熱が何日もつづいて、アッという間に亡くなってしまったのです。お医者さんに診てもらうこともできなくてね。
悲しみで途方にくれている平井さんたちを見かねた原田さんのおばさんは、近所の永寿院の住職さんのところへ相談に行きました。
「こんな身寄りもねえ土地にきて・・・。おら、シゲ子がもうらしくて・・・。」
「おお、うちの墓地に葬るといい。経もとなえましょう。」
住職さんのことばに、原田さんは、ほっとしました。お寺の墓地の、それも自分の家の墓の近くところへシゲ子ちゃんを葬ってもらいました。そうして、くずれてしまわないように小さな石を並べて礎石をつくって、その上に大きめの石をのせて墓標をつくりました。
母国語の名前もつけてもらえずに、また、両親が生まれたあの朝鮮の地に、小さな足あとを残すこともなくて、知らない土地での短い命でした。
やがて、戦争も終わってしばらくして、平井さんたちは、名古屋の方に行くといい残して、仁之倉を去っていきました。
それからのち、原田さん老夫婦は、毎年、お盆のころになると、シゲ子ちゃんのはかのまりのクマザサをはらっておそうじをしてきました。そして、お花をあげたり、線香をあげたりして、シゲ子ちゃん迎えつづけてくれています。