熊蔵さんとあま沢 小林浩子
むかしむかしのこと、古海に熊蔵さんという大工がおった。それはそれは働き者で、毎日、古海から菅川をぬけて一里の山道を歩いて働きに行っておった。
さて、秋も深まったある日のこと、そうそう、その日は建前があって、熊蔵さんは、お酒をご馳走になって、日の暮れた山道を、ちどり足で鼻唄を歌いながら帰ってきた。
通いなれた道とはいえ、あたりは灯り一つない山道。雲間から月の光が道を照らしてくれるが、ときおり笹の葉が風に鳴るだけ、だれとも行き会うこともなかった。
半里ほど山道を登ったところに、そのむかし、尼寺があったという沢(村びとは、あま沢とよんでいた)にさしかかったときである。
「熊蔵さん、熊蔵さん」
と、女の声が沢の下から聞こえてくる。
「なんだ、こんな山の中でおれを呼ぶのは。なんのようだや。」
熊蔵さんは、酔ったいきおいもあって、楽しげに答えた。そして、足をとめ、ゆったりとあたりを見まわしたが、だれもいない。
「なんだ空耳だったか。」
しばらく行くと、また呼ぶ声がする。
「わたしの家によって行きませんか。」
手ぬぐいをかぶった女の人が、山道に立っていた。
「はて、こんなところに家はなかったはず・・・・・なんで、おれの名を知っているだや・・・・・」
と、女の人の姿は、すーっとやみにとけこむように消えてしまった。
熊蔵さんは、腰もぬけるほどびっくりし、大工道具をほうり出し、やっとのことで家にたどりついた。
それから三日三晩いうもの、熊蔵さんはふるえがとまらなく、布団をかぶって寝込んでしまったと。起きあがるようになっても、仕事が手につかなく毎日ぶらぶらしていたそうだ。
それからもあま沢には、ときおり女の人が出ては、道ゆく人を呼びとめたそうな。