柏原の金刀比羅さん 小林浩子

 いまから百九十年ほどむかしのことである。
 柏原村は宿場として、また塩・米・穀物などを運ぶ街道としてもにぎわっていた。というのも、ここを通るには、通行料金をはらう仕組みになっていて、その通行料が村をうるおしていたのであったから。
 ところが、いつしか塩・米を運ぶ荷車がこの街道を通らなくなってしまった。塩・米・穀物を運ぶ人びとは、通行料金の支払いをおしんで、こっそり裏街道を通って運搬するようになったのである。
 そういう事情から柏原宿は、だんだんとさびれていった。
 この村で問屋業を営んでいた、中村六左衛門さんは、「これは、大変なことになった。こんなご法度のぬけ道がつづいたら村はつぶれてしまう。」と村の人々と相談して、隣村十六村を相手どり、江戸までいって争うことになった。
 しかし村びとの願いもむなしく、柏原村の訴えは、しりぞけられてしまった。
柏原宿  信心深い六左衛門さんは、「こうしてはいられない。」と、朝な夕なに東の空に向かって「どうか神さん、おらほの村を勝たせておくんなして。お上から許可が出ている通行料なのに、裏街道をこっそり通るのが正しいはずはございません。どうかお願いしやす。」
 こうして毎日神だのみをしていたら、なんと九年目になって、「柏原村の申し出は、すじ道にかなっている。物資の運搬にぬけ道をすることは許さない。」という裁定がくだされたのだ。
 それからというもの、前にもまして宿場も繁盛してきた。
 六左衛門さんは、「これは神様のおかげじゃ。」と、村びとを誘って、農業・海・商売の神様である四国の金刀比羅さまへお礼まいりに出むいたのだった。そしてお札をいただいてきたのである。
 村人たちは、六左衛門さんの裏の山に祠をたて、金刀比羅さんのお札をまつった。
 それからというもの、村びとは、毎年八月九日を縁日とし、六左衛門さんの家から裏の山へ灯籠をたて、にぎやかに出店も並び、夜のあけるまで踊りあかす祭りがつづいたそうだ。
 いまでも、柏原を一望する伊勢見山に、金刀比羅さまがまつられている。

(注)「金比羅」、「金毘羅」と表記されるのが一般ですが、伊勢見山のお社には「金刀比羅宮」と額に記されている。

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