木曽義仲と護国庵 黒田ゆり子
むかしむかし、木曽義仲という武士の大将が、平家を討つために大勢の家来をひきつれて、木曽から信濃町の戸草へとやってきた。
戸草の地形が、城をきずき、兵士や馬のくんれんをするのに大変いい場所だと見てとったのだ。
戸草の村人の力をかりて、ここに本丸をきずき、つづいて二の丸もきずき、まわりには、自然の地形も利用して、ふかい堀もめぐらせた。
いよいよ、たたかいのじゅんびができたので、戸草の北にある諏訪神社(諏訪ノ原)に行き、そこで戦勝の祈願をした。それから手はじめに、近くの割ヶ岳に城をかまえてこもっていた、柴津為信を攻め、これを討ちやぶった。
さらに越後(新潟県)をはじめ、北陸の平家とたたかって、つぎつぎに勝ち、ついに京の都へのぼることができたのである。
しかし、一方の大将である、いとこの源頼朝と仲がわるくなり、京のちかくの粟津で頼朝の軍勢とたたかい、ついに討死にしてしまった。
義仲の戦死のしらせをきいたゆかりの人たちは、その死をかなしんで、戸草に小さな庵をつくり、義仲の霊をとむらった。
その後、この庵は「護国庵」と名づけられ、村人によって守られてきた。
しかし、世の移りかわりとともに、庵主さまもいなくなり、ついに、昭和三十五年頃この庵をとじることになった。
現在は、その地に戸草集落の公会堂がたてられ、その一部に仏像が安置され、木曽義仲公の位牌とともに、大切に保存されている。
また、義仲が本丸をきづいたとき、城中の飲み水に使ったといわれる清水が、公会堂の庭に、いまも水温がかわることなく、こんこんと湧きでている。