長範の玉石 
猿谷たかよ
 

 七百年ぐらいのむかしのこと。越後ざかいの熊坂村に長範という子どもがおったと。体格はずばぬけて大きく、知恵も力もあり、そのうえ太腹だったので村人は、
「この子は、いまにに大物になるぞ。」と、うわさをしていたと。
 それから十幾年、長範は村から姿を消していたが、ひょっこり帰ってきた時は、おどろいたことになんと盗賊のかしらになっておったと。
 野尻湖の北方の小高い山を長範山と名付け、そこを根城にして、大ぜいの子分たちと各地を荒し廻ったと。
 盗賊ながら長範は、
「老人やおんな、子どもに手をかけるな。」長範と子分
「貧しい家をおそうな。」と、きつく子分たちをいましめていたと。
 そんなわけで、各地の長者たちをおそい、金銀財宝をうばいとる熊坂長範の名は、天下にとどろいていたと。
 さて、ある年のこと。長範は、金売吉次一行がたくさんの金塊をもって都からみちのくへ行くことを聞きつけ、その金塊をうばうさくをねった。
 大ぜいの子分たちを引きつれ、長範は木曽路から山づたいに美濃の国に入った。そして長者の屋敷に泊まっている金売吉次に夜討ちをかけたと。
 これまでにない大成功をもくろんでいたのに、なんとしたことか、その夜にかぎって牛若丸が同行しておったので、さすがの長範も牛若丸にかなわず、逆襲にあって殺されてしまったと。
 戦国の世に平家をきらって盗賊となり、世直しのため資金を貯えていた熊坂長範は、ここにあえなくほろびてしまった。
 しかし、現在も信州信濃の長範山の周辺には”長範屋敷””物見の松””厩久保”などの地名が残っており、むかし話しがいきづいているのでおもしろい。
 ところで、信濃町から越後路へ入る国道十八号線の赤川手前の大曲から北西へ三百米ほどのところに、”長範の玉石”がある。大きな岩石で、「この下に長範の調達した莫大な財宝が埋められている」と、伝えられている。
 また、後日になって、
 ”朝日のさす夕日輝くころ、夏あつからず冬寒からず三足半かな”
と、いう宝物のかくし場所をほのめかす書き物が見つかり、この謎の場所をさがす人があとをたたなかったが、いまだに発見されておらんと。そうそう、
「長範山の水をのむと盗み心がおきるから決して飲むな。」
という、いましめも伝えられておりますよ。

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