行基さんと荒瀬原 峯村米子
行基さん
 これは、斑尾山の南面にあたる荒瀬原の地に伝わっているお話しです。
 いまからざっと1300年も前の遠いむかしのこと、村にはまだ田畑も少なく、人々はたいへん貧しいくらしをしておりました。なんとかもう少し田を開こうと思っても、このあたりの水はにごっていて、米をつくるのに適しておりません。そのうえ、少し雨でも降り続くものなら、川は荒れて、せっかく開いた田畑も押し流されてしまいます。
 村人たちは、朝と夕べの食べ物にもことかくほどでした。冬が長く、雪の多い地方です。春まで食いつなぐことができなくて、飢えて死ぬ人さえ出てきました。
「あの川の水さえ澄んでいりゃ、田んぼもつくれるのになあ。」
「このまんまじゃ、いくらかせいだって、どうにもなりゃしねえ。」
 百姓たちの顔はくらく、みんなの口からはかまけ話しか聞かれませんでした。
 さて、そのころ行基というえらい坊さまが、北のほうの越後の国を旅しておいでになりました。米山というところの五輪山のやまのふもとにさしかかられたときです。行基さんはたいそうお疲れになり、大きな木の下でいっとき休んでいくことにしました。長い旅のことですから、ついうとうととなさいました。
 そのとき、夢の中でふしぎな声をお聞きになったのです。おごそかな声でした。
「当山の西南にあたる斑尾山のふもとは、流れる水がにごって、里人がたいへん苦しんでいる。薬師如来を信仰 すれば、水は澄むであろう。」
 目をさました行基さんはすっくと立ちあがり、西南の方に向かって合掌されたのです。お百姓の苦しみを思うと、じっとしてはおられません。行基さんは急いで斑尾山めざして旅立ちました。
斑尾山の頂上近くに平らな石がありました。行基さんはその石におすわりになって、せんだんの木で、二体の薬師如来像をお刻みになったのです。
 行基さんのことは、困りはてていた里人の間にまたたくまに知れわたりました。そして、ふしぎなことに神さまのお告げどうりになったのです。にごっていた川の水は澄んで、そのうえ、近隣ではめずらしいほどおいしい清水もわき出てきました。
「これは、行基さんがつくられたお薬師さまのご利益に相違ねえ。やっと、これでこめもたくさんとれるようになるわ。」
荒瀬原の田園 村人たちは大よろこび。せっせと田を開いて、米作りにはげみました。さっそく本能寺というお寺を建てて、お薬師さまをそこにまつりました。
 行基さんが刻まれたもう一体の薬師像は、お告げを受けた越後の国、米山の五輪山の頂上にまつられたと伝えられています。
 

 それから350年ほどたって、康平六年(1063年)に、源頼義が奥羽から京へのぼる途中ここ斑尾山のふもとの村を通りました。そしてこの霊験あらたかな話を聞いてたいそう感服し、荒れかけていた本能寺にたくさんの寄進をしました。伽藍や坊舎も建てて「荒千坊」と名ずけました。いま地名として使われている「荒瀬原」はこれに由来するといわれています。
 さらに、300年くらいたった天授元年(1375年)、本能寺は火事であとかたもなく焼け失せてしまいました。
 村人たちはおそれおののき、相談したあげく、その灰を鎮守の森に埋めて、草庵をつくってお守り申しておりました。
 そんなある日のことです。村人のひとり、荒瀬原万太郎という人が、斑尾山に薬草をとりにのぼったときのこと。
「万太郎ー。」
「万太郎ー。」
 かすかな声が聞こえてきます。だれかが万太郎を呼んでいるのです。万太郎は足を止めて、ふとふり返ると、そこに白い装束で身をつつんだ白髪の気高い老人が立っておられるではありませんか。老人は背中に背負っている木の箱を指さして、もの静かな声でいいました。
「このご尊像は、斑尾山の薬師如来さまでございます。お寺が炎上しましたとき、猛火をさけて越後の国の米山へのがれておられたのです。いままたこの地にお帰りになるられるところです。あなたにお会いできたたのも如来さまのお導きでございましょう。ぜひご同行いただきたい。」
 万太郎はあまりにもとっさのことでびっくりし、なんと返事を申し上げてよいものかか夢うつつの中におりました。ところが、白髪の老人はそういい終えたかと思うと、息絶えてしまったのです。
 万太郎は薬師如来さまを背負って村におり、村人たちと力を合わせ、ふたたびお堂を建てて、手厚くあがめたのです。
 それから幾星霜、となり村の芋川の村上五兵衛という人がお寺を改修して、即心院と改めました。
 行基作と伝えられる薬師如来さまは、いまもお胸のあたりに焼けどのあとを残して、下荒瀬原の即心院のしゅみ壇にまつられているそうです。

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