
むかし、北信濃に、小さなお城があったそうな。そこの殿様には、黒姫という美しい娘があっての、たいそうかわいがっておったと。
さて、ある春の日のこと。殿様は姫を連れて、東山へ花見に出かけたそうな。
景色に見とれながら、殿様が家来のものと、酒をくみかわしていると、父に寄り添う黒姫の前にの、小さなへびがきてうずくまったと。
姫がへびにさかずきをさし出すとの、相手はあっという間に、酒を飲みほしてしまったと。
それからいくにちかたったある日のことじやった。ひとりの、きりっとした若武者が城をたずねての、殿様に向かっていうには、黒姫を妻にむかえたいと。
とつぜんの言葉にびっくりした殿様がの、若武者の身分をたずねると、わたしは、大沼池にすむ黒竜でございます、という。先日姫にお会いしてからというもの、姫のことが忘れられず、こうしてお願いに参上したという話—。
殿様は、ヘビに姫をやるなどとは、これは大変と、そくざにことわったそうな。
しかし若武者は毎日のように城をたすね、同じことを熱心にくり返したと。
その熟心なようすをはだから見ていた黒姫は、しだいにその若武者に心をうばわれるようになっていったそうな。
殿様は、しだいに恐ろしくなり、とうとう難題を待ちかけ、それをやりとげたなら姫をやってもよいと約束してしもうたのじゃ。
「あす、わしが馬で城の周りを二十一回まわる。おまえは走って、このわしのあとについてまいるのじゃ。ぶじ二十一回走りとおしたなら、姫をやろう。」
「きっと、きっとですね。」
いよいよ、ためしの日がやってきた。
殿様は城下で一番という名馬にまたがり、ムチを鳴らした。馬は舞うように走り出しての、そのあとからは若武者が、汗をかき、息をはあはあ吐きながら、おくれまじと走り続けたそうな。
途中で、殿様のけいりゃくにより、何千という刀が城のまわりにさかさに植えられているのを見た若武者は一瞬ひるんだがの、それでも、若武者は勇敢にその中に走りこんでいったと。土と血にまみれながらのう。
そして、ついに約束の二十一回をまわりとおしたと。
「さあ、殿、姫を!」
若武者が、あえぎながら言ったところ、殿はあざ笑うての、きっぱりとはねつけてしもうたんじゃ。
とたん、若武者はきばをむきだし、たちまち恐ろしい黒竜に変身して、空高くまいあがったと。
かき曇った空には異変が起こり、たちまち山の高いところにあった大沼池をはじめ、四十八の池が、みーんなつぎつぎにこわれての、村をおそう洪水となったそうな。
黒姫は、
「どうして父上は約束を守らなかったのですか。ひどい。ひどい。父上—。」
と、泣いたと。
あれ狂う洪水は城をとりまく田畑を流して、そのいきおいは、やみそうにない。姫は、「黒竜さま、どうか嵐をしずめてくださいまし。お願い、お願いいたします!」
ひっしに天に向かって叫んだそうな。
すると、金色の雲があらわれての、なかから、黒竜が舞おりてきて、しだいに嵐はしずまり、洪水はやんだそうな。
黒竜は姫を背中にのせると、みるみる天にのぼっていったと。
「うらぎられたこの気持ちを、どうかお察しください。—ああするより仕方がなかったのです。」
やがて黒竜は、ゆっくりと西の出のみねにまいおりての、それからというもの、二人はそこの沼に住むようになったそうな。
その山はやがて、黒姫山と呼ばれるようになったと。
作・和田 登
採集地・信濃町