一茶さんの句碑とお相撲さん 峯村米子

 柏原の小丸山公園の真中に、
   是がまあ つひの栖か 雪五尺
という、一茶さんの有名な句を刻んだ、おおいかぶさるような形の句碑が建っています。
 一茶さんは、文化九年(一八一二年)五十歳のとき、故郷の柏原へ帰るために江戸をあとにしました。そして、十一月二十四日、雪の積もるこの地に帰ってきました。この句は、そのときよんだものです。
 句碑は、戦後まもない昭和二十六年、一茶百二十五年忌の記念事業として建てられました。
 このしゃくれた句碑の石は、長さ二七〇センチ、巾九五センチあって、建てる前までは伊勢見山のふもと(いまの信越病院の裏)の大きな杉木立の下に横たわっていました。
 長い間、近所に住む子供たちは、ここに集まってはよく遊びました。日かげですし、舟底型にしゃくれた石の上に、男の子も女の子ものぼって、暗くなるまで思いきり遊んだものでした。
 碑を建てるについて、所有者の中村元糊さんにお願いしましたところ、こころよく承知してゆずってくださいました。もともとは、江戸のころ、中村家に寄寓していた塾の先生の筆塚をたてるために、黒姫山から運びだしてきた石だそうです。
 大きなしゃくれた石を運ぶ三月十日の日は、朝から大ぜいの村人たちがここに集まりました。まだ地面に雪が積もっている間に、大ぞりに乗せて、小丸山公園まで引っ張っていこうというわけです。
 柏原中学の生徒と村内の有志二五〇人が参加しました。音頭を取るのは、信濃屋の小林鉄之助さんです。当時、馬をつかって運送引きをしておられた人です。
句碑の運搬  山から木材を出すときにつかう頑丈なそりの上にのせた石を、大きなかけ声と供に、太い綱で力いっぱい引っ張りました。かちわたりといって、かたくこおった雪の上をすべらせたのです。
 いったん針の木へ通じる道に下ろして引き、それからまだ松並木の残っていた国道を北へ行き、郵便局のところから小丸山へ向いました。
 石に句を刻んだのは、野尻の石工、酒井梅吉さんでした。

 さて、このしゃくれた石について、こんなおもしろい話があるのです。
 ときは、江戸の末期か明治のはじめ。柏原の諏訪神社の秋祭りの日ですから、九月の二十七日か二十八日の午後の出来事です。諏訪神社に奉納相撲がありました。廿山部屋の力士のひとりが、足をひきずりながら伊勢見山のふもと近くを歩いていました。奉納試合を打上たばかりです。汗が流れるように出て、くたくたになった関取は、どこかゆっくり休める場所はないかと、涼しいところをさがしていたのです。
相撲取り  この年の残暑はかくべつひどくて、この日も真夏のような暑い日でした。まだ、胸のどうきは治まらず、高鳴っていました。
 関取は、左手の方に、こんもりとした杉木立の森を見つけました。近くま昼寝の相撲取りで行ってみると、二かかえか三かかえもある杉の大木が数本、天に向って伸びていて、大きな枝が風でゆっさゆっさとゆれて、日かげをつくっていました。その木の下に、表面の平らな大きくて長い石がありました。
「これは最高、この上なし。」
と、つめたい石の上に、どっかと腰をおろしてひと休み。ゆかたの襟元をぐっとひろげて、涼しい風をからだいっぱい入れました。しばらくすると、玉のような汗もひいて、こんどはあべこべに疲れがどっと出てきました。
 関取は、ひんやりとした石の上に横になると、いつの間にか眠ってしまいました。石は、関取の大きなからだが横になっても十分すぎるほどの丈長でした。
 あたりは、だんだん日ぐれ近くなってきました。そこへ現れたのが、名主の中村徳左衛門さんのところの女中のおいわさんです。きょうも、この近くに住んでいる書道の先生に夕食をとどけにやって来たのです。
 おいわさんは、石の上に寝ている関取を見て、もう少しで、持っていたおかもちをひっくり返しそうになりました。
 なぜ、そんなにびっくりしたかって?
 無理もありません。大きなおすもうさんが大の字になって石の上に寝ている上に、よく見ると、その石の表面が、重みでくぼんでしまっているのです。
 おいわさんが来たことも知らず、関取は、大きないびきをかいて、ぐっすり寝こんでいます。今日の勝負で、相手力士を土俵の外に放り出して勝った夢でもみていたのでしょう。
 それにしても、いやはや大した重さでごわすなあ。