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戦国の世を翔た男 村上義清

 坂城に縁のある人物として、まっさきにあげられるのが、坂城に居城葛尾城を侍った村上義清である。

 群雄割拠の戦国時代に義清は、武田清信(信玄)の大群に決戦を挑み、天文十七年(一五四八)の上田原の合戦と天文十九年(一五五〇)の俗に戸岩崩れといわれる戦いで二度にわたって勝利し、武田の信濃攻略を阻止した。だが、天文二十年五月、難攻不落を誇った戸石城は、武田の工作で真田勢の不意打ちを受け落城。そして、天文二十二年四月についに葛尾城も武旧軍に攻められて落城し、義清は長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れ、これが世にいう川中島の合戦の引き金となった。
 葛尾城落城の折、越後へ向かった義清と別れた奥方は、数人の腰元とひそかに姫城を抜けだした。追手を逃れ荒砥城へ向かう途中、刈屋原への夜道を松明の火をたよりに山を下った。そのとき松明を結び付けた松の木は「灯しの松」として今も残っている。奥方たちが来た道を振り返ると、葛尾城は真っ赤な炎に包まれ、まさに崩れ落ちんとしている。やっとの思いで、千曲川の辺にたどりつくと、ちょうど渡し場に一隻の舟があった。奥方から事情を聞いた船頭は、「私の命に代えても、奥方様がたを向こう岸へお渡しいたしましょう」と、一行を力石へ無事渡してくれたうえに、荒砥城への近道を教えてくれた。この船頭の親切に感謝した奥方は、「着のみ着のままで落ち延びてきたゆえ、鳥目(お金)も持ちあわせぬが、もし、再び我が殿がこの地を治めることにならば、必ずや恩賞を遣わしましょう」と言って、髪から美しい金の笄を抜いて船頭に贈った。これにちなんで後に、笄の渡しいうになったという。
 義清らの身を案じつつ、千曲川の渡しを無事に渡りおえた一行は、道を急ぎながらも葛尾城の焼け落ちていくさまを振り返りながら、涙を流して急な坂を登っていった。この坂は「女涙坂」と呼ばれ、戦国の世の悲話を今に伝えている。また一説には、一行がちょうど上平の付近にさし
かかったとき、野武士たちに囲まれ、辱めを受けるくらいならと、守り刀を抜き、刺し違えて果てたとも伝えられる。後に、そのことを知った村人たちは手厚く葬り、小さなお宮にお祀リしたという。そのお宮は今は自在神社に移ったが、地元の人に「姫宮」と呼ばれ親しまれている。また、根古屋と刈屋原を望む位置に「比丘尼石」と呼ばれる石がある。これには、坂城の民衆の幸福を析って義清の奥方が石に化したという言い伝えもある。よくみれば、ちょうど尼さんがお経を読んでいる姿に似ている。


さし絵・塚田陽一
採集地・苅屋原

長野県 長野地方事務所 長野広域行政組合刊 長野地域民話集昔々あるところより
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