「おばあさん、見てくんろ。」と織場にかけこんできた〝おまん〟の手には、これまで見たこともない褐色に染まった布地があった。地織の手を止めて、その布地を見たおばあさんの顔は、驚きの表情に変わった。
「ようやった、ようやった。」と、何度も何度も口走るのだった。
「うん、ドングリの実をつぶし、渋水をとってそれで煮染めしたらこんな色に染まったんだ。」
お殿様が望む褐色の生地に染めあげるのに、おまんはここ半年ほど、どれほど苦心したことか、それはおばあさんしか知らないのだ。
「お殿様もきっとほめてくださるぞ。」
おまんとおばあさんは、手をとり合って喜ぷのだった。
雁田山のふもとに岩根院があるが、ひとひだ隔てた山向こうに雁田沖という所がある。そこに周囲およそ七メートルほどの他があった。清水がこんこんとわき出て、どんなに日照りが続いても涸れることがなかった。
この他のほとりに、おばあさんと孫娘のおまんの家があった。おばあさんは、若いときから村一番のハタ織り上手、そしておまんは染物にかけては、この里では評判の名手であった。ここ何年もお殿様に献上する布地は、おばあさんが織り、おまんが染めたものだった。
山に獣が多かった時代は、熊皮、猪の皮などを衣服にしたが、それよりも多く用いられたのが樹皮の繊維を織ったものだった。科布、藤布、野生苧麻などかそれで山国に住む住民にとって科の木は大切な衣料資源であった。ことに信州の山野には、他の国の山地よりく自生していた。

ハタ織りはできても、染色はよほど。〝はつめい〃でないとできない作業であった。化学染料がなかった時代は、そこらあたりに繁茂している草の根、木の皮、葉や花、果実の中から、それぞれ持っている自然の色素を引き出して染色していた。
おまんは染色にかけては天性の才能を持っており、それに気立てがよくて研究熱心ときているのだから、十七、八歳のころには〝染色上手のおまんさん〃と近郷近在の評判になっていた。おまんは、藍草の葉の藍染、紫草の紫、紅花を材料にした紅などを上手に染めた。キワダの皮を刻み、熱湯に入れ、日光にさらした汁に布を入れておくと黄色に染まることは、おまんだけができる染色技法であった。また池の近くにある〝権助ドブ〃につけて染める泥染も得意であった。
こうして染めた布を他の湧き水にさらして念入りに仕上げるのだった。この池の湧き水がなかったなら、どんなに苦労した染色でも鮮やかな色に染め上がらないことをおまんは知っていた。だからおまんは、この池をそれはそれは大切にしていた。こんどお殿様に献上する褐色の布もこうして染め上げたのだ。
「おまん、でかしたぞ」と、望みの色の布地を手にしたお殿様の喜びようは大変なものだった。
そこでお殿様は思いついた。〝京都のきらびやかな染色技法を、おまんに会得させたら、もっともっと素晴らしい布ができるに違いない〃と。
精根を打ち込んだ仕事で、げっそりやつれてしまったおまんのもとに、お殿様から京都行きの言いつけがとどいたのは、布を献上してからまだ二日とたっていなかった。
生まれてこのかたよそへ出たことのないおまんであったが、お殿様の言いつけとあってはどうしようもない。年老いたおばあさんに心ひかれながらも、旅支度もそこそこに出立していった。不慣れな一人旅とあって、木曽路の宿場にたどりついたものの心身ともに疲れ果て、病の床につ
いてしまった。弱々しい声で語るおまんの話を聞いて、宿の人たちは親身になって介抱してくれたが、「お殿様に申し訳ない。」とつぷやきながら、ついに不帰の人となってしまった。
この知らせを聞いたお殿様は大変悲しまれ、ついこの間までおまんが精魂込めて染め上げていた池を「おまんの布池」と名付け、いつまでもおまんの染色技法をしのび、その心情を伝えることになったという。
雁田沖は、昭和十九年に耕地整理されて「おまんの布池」はなくなったが、池があったという水田からは、今も湧き水がこんこんとあふれ流れている。また、その付近から抹茶をひいた石臼の破片が出土している。専門家に鑑定してもらったところ、関西方面にみられる茶臼であることがわかった。関西から取り寄せた茶臼で抹茶を賞味するなど、当時としては相当の豪族の屋敷があったのではないか・・・。水田を渡る風が、昔語りをささやきかけているようである。
