
むか〜しむかし、信州は上水内、日里の郷の百姓は、それはそれは貧しい生活をおくっておりました。
急傾斜で足場の悪い畑に、白々空が明ける頃から月が出るまで、やきもちやせんべを弁当に、くる日もくる日も働きどおし。
いくら働いても百姓たちの生活は一回に楽になりませんでした。 お嫁さんも同じこと、昼間は野良仕事、夜はわら仕事、それは厳しいものでした。
お腹に子ができても、きつい野良仕事と粗末な食事のため、十分な休養と栄養をとることができませんでした。
そんな暮らしでしたから、いくら子どもができても流産や死産が多く、生まれても乳があまり出ず、子どもはなかなか育つことができませんでした。
これを見かねた地元、廣福寺の伝龍和尚。 「子どもは家の宝、国の宝。子どもをマメに育てるには、嫁を大事にし、観音さまのお慈悲にすがるしかない。」と、家々を回って説き、お嫁さんの観音参りを勧めました。
それから、身ごもったお嫁さんや、お産をした母親たちは、姑婆さんや家族の人たちから許しがでて、公然と観音参りをすることができるようになりました。
伝龍和尚さんは、お参りをした者に、観音さまのお慈悲を説いて聞かせ、心に安らぎを与えるとともに、少しでも仕事から解放し、たとえ一時でもゆっくり体を休ませようとしました。
また、和尚は、観音さまのお慈悲を説いて聞かせた後には、寺の食事を切り詰め蓄えておいた食糧で、少しでも体力がつくようにと、毎回一膳の食事をふるまいました。
そして、帰リには観音さまのお慈悲として、供物の御参八日(米三合)を施し、「これは観音さまよりの賜りものであるから、子持ちの母親だけが食べるように。」と説きました。
それからというもの、この教えをどの家でもよく守ったため、子持ちの母親の乳の出がよくなり、赤子もよく育つようになったということです。 こんな御利益の活か近隣の村々に伝わって、誰いうとなしに廣福寺を「乳出し観音」というようになり、いまでも大勢の人がお参りに訪れております。
※日里の郷 現在の中条村の虫倉山南側山麓一帯の集落の総称
※せんべ 食べ物で小麦粉を油で焼いたもの
※やきもち 食べ物で「おやき」のこと