
治承四年(一一八○)っていうから、今から八百年の余も昔のことだ。
父の義賢が甥っ子の義平に討たれたとき、駒王丸は二つの赤子で、情深けえ武士に助けてもらい、木曽の山中に隠れて中原兼遠っていう人に養ってもらったんだ。
十五で元服して木曽次郎源義仲って名のり、学問や芸術に励む日々を送っていて、二十七になった年のことだった。「平家を討て」っていう伝え文が届いたんだ。
木曽殿は中原親子と相談し、兼遠の親類で、小県や佐久にいた滋野一族に後押ししてもらい、信濃国中の大小の武士を集めて、九月七日に平家追討の旗挙げをしたんだ。
それで、さっそくその日にやあ、高井の笠原にいて、北信に勢力をもってた笠原平吾と市原(長野市付近)で戦って破ったから、平吾は越後の城資職に助けを求めて逃げていったって言う。
ところがその翌年のことだ。六月に入るとこの城氏が六万っていう大軍で攻めてきた。
木曽殿の方は三千に足りない小勢だが、いろんな策略をつかって、横田河原(長野市篠ノ井)で打ち破ったんだ。
三とこに傷を受けた大将は、やっと越後へ逃げ帰ったが、生き残った家来はみんな木曽殿へついたから、出羽へ逃げてしまったっていう。それだから、この横田河原の合戦から二た月後にやあ、越後はすっかり木曽殿の手に落ちたんだ。

それから後の木曽殿は、越中や能登・加賀の武将だちと手を結んだから、またたくうちに五万の大軍勢になり、北陸へ攻めこんで来た平家の大軍を打ち破って、破竹の勢いで都へ攻めこんでいったんだ。
北陸の武士と手を結んだ木曽殿は、連絡のためにさかんに使者を送ったんだが、本拠地の横田城から北陸へぬけるにやあ、裾花川沿いの谷道が近い。
険しい山中で大雪が降るところだが、これよりも前の平安時代から、大峯や羽黒なんかと全国に名のしれた山岳修験の戸隠山があって、行者がさかんに通った道も開けていたから、「歌枕」に、「浦見(恨み)の山」っていう名も見えているとこなんだ。
寿永二年(一一八三)春、ついに、木曽殿は北陸へ軍勢を進めたが、そのときもこの谷を抜けたっていうが、みんなそのときの話だ。
小佐出入りの、今の「巻の幅」へさしかかったとき、持ってた巻物が草っ原へ落ったていう。
そこで木曽殿は今井兼平を呼び、守り本尊の文珠さまに巻物を添えて、土倉の薬師堂に祀らせたっていうのが、土倉の文珠さまだ。
もう一つ寿永三年(一一八四)正月二十日、木曽殿が従兄の頼朝勢に負けて、近江の粟津が原で三十一の生涯を閉じたあと、二番めの子の力寿丸がここへお堂を建てて文珠さまを祀り、父の菩提を弔ったっていう話もあるんだ。
この谷を通ったとき、山中の樵夫に道案内を頼み、褒美に今井・川又の苗字をくれるっていう古文書も土倉にやあ残っている。
土倉の奥にやあ「木曽殿アブキ」っていう岩穴があるが、ここは北陸への使者が雨風を凌いだり、また木曽殿も兵馬を休めたとこだっていう話だ。
また、木曽殿が討ち死のあと、安曇の仁科盛遠に守られて仁科の里にいた力寿丸が、鎌倉方の残党狩りの手を逃れて隠れ、家臣と木曽源氏の再興をはかったとこだともいわれてる。
まあどっちにしろ、文珠さまもアブキも、木曽殿親子の話で、深い因縁をひめているとこなんだ。
土倉の堂屋敷にやあ、学者が鎌倉時氏のもんだっていう五輪の塔もあるし、川石を組んだ古い墓もあって、刀の鍔や馬の鐙も出てきたりして、みんなこの木曽殿のいわれにつながっているんだ。