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内裏屋敷と貴女紅葉

文  ・川俣従道
さし絵・増尾邦治
伝承地・根上り「内裏屋敷

 これは千年以上もむかし、都が京都にあったころのお話でございます。
 そのころ、天子さまのまつりごとをお助けするはずの公家たちが、白分たち一門の力を広げることばかりにうつつをぬかし、互いに相手を悪く言い合っては陥れ、そのため、いつも争いごとが絶えなかったのでございます。
 そのころのことでございます。さる公家の奥方さまの目にとまり、召し出されてお館にあがり、お仕えを始めた年若い腰元がございました。
 この女性は、美しい上に琴や笛のじょうずでございましたから、まもなく、お館じゅうの評判になって、お館さまの耳にも入り、やがてご前にも召し出され、ついには深いご寵愛を受ける身となったのでございます。
 それからほどなくして、腰元はお館さまの子を宿し、玉のような男の手を産んだのでございます。
 ところが、その翌年の秋には、この年若く美しい腰元は、山深い信濃の戸隠山中に流されの身の上となったのでございます。
 そのわけにつきましては、お館に仕える腰元の身でありながら、お館さまのご寵愛の深さにおぼれ、とうとう奥方さままでも無き者にしようとはかったかどによって、このような罪をこうむったのだとも、一説では伝えているのでございます。
 腰元が、配流の地となりましたこの山中は、都からは遠く隔ったけるかな深山幽谷ではございますが、そのころにはすでに、山岳修験の一大道場の霊地として、全国にその名を知られ、多くの山伏たちが津々浦々から集まって来たところでもございましたから、この険しい山中に通じる遠は、いろいろの方面から聞かれていたのでございます。
 とりわけ都からの道は、周山街道を北にすすんで敦賀湾に出ると、そこからは沿岸伝いに海路を船で渡り、やがて能登半島を回って内浦に出ると、後はまっすぐ進んで越後の青海や糸魚川あたりで再び陸路にあがり、そこからは谷や峰伝いに内陸深く進んだのでございますが、この道は、神代のころに、すでに諏訪の神さまもお通りになって、諏訪にお入りになったのだとも伝えられている道でございます。
 ところで、流罪の身となったこの女性は、「紅葉」さまと申し上げますが、この流人一行も、やはりこの日本海からの道をたどって、都からこの山中を目ざされたのでございます。
 深くて険しい国境いの峠を越えて、姫川づたいに安曇の平に出ると、戸隠山中への道は、塩島あたりから東に折れて再び山中に入り、谷川づたいに進むのでございますが、柄山峠を越えて落合沢に沿って下ると、道はほどなく裾花川のほとりに出るのでございます。
 難渋に明けくれた長旅のはてに、ようやくたどり着いたこの谷間の小さな平地は、深い山ふところに抱かれた蔵
風得水の美しい山河で、女性は安住の地にふさわしいとされたのでございましょう、そこに草桂の紐を解かれたのでございます。
 いっぼう村人たちは、遠い都からたどり着かれたこの貴人のために、知恵を出し合い力を出し合って、立派な館を造ってさしあげ、さらに精いっぱいお尽くしもしたのでございます。 草深い山中へ、流浪の運命をはかなみながらも、こうした温い村人たちの心に触れて慰められ、やがて村人に対しては医術をほどこし、婦女子には手習いなども授けていくようになって、村人からは「内裏さま」と敬い慕われるようになったのでございます。
 しかし、そのような日々の明けくれの中でも、遠い都の生活を忘れかねてなのでございましょうか、館の東側一帯を「東京」として、加茂の官を勧請し、一条から五条を設け、まわりの山々を清水、高雄、東山と呼び、その中を流れる川を加茂川としたのでございます。
 さらに西側一帯は「西京」として春日社を祀リ、ここにも吉田とか天神川など京ゆかりの名を、今に残しているのでございます。
 流謫の美しく哀しい貴人が、その後「荒倉山」に移って鬼女と化し、都から遣わされた武将によって討たれたとされる伝えもございますが、それは、その山に移り住んでからの事情によるいわれでございましょう。
 この里に語り伝える貴人の館あとは「内裏屋敷」と呼んで、はるかむかしに、遠い都から香り高い文化が運ばれてきて、この山深い谷問にも移し植えられたあととして、村人たちは誇り高く、今にそのむかしを口々に語っているのでございます。

長野県 長野地方事務所 長野広域行政組合刊 長野地域民話集昔々あるところより
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