
人間と自然のかかわりは長い年月の中で体験を積み重ねながら、いつの間にか習慣となり人から人へ伝承され、広められてきています。
なかでも農業は自然相手の産業であり、むらは集落全体が一つの運命共同体として助けあいながらくらしてきました。そのくらしには節目節目に何らかの行事をつくり、先祖(神)と共に饗しながら五穀四定穣を願い、感謝しながら家族やむら人との交流がはかられているという満足感がありました。社会や産業の発達や分化によって、必ずしも原型はとどめてはいませんが、作物を育てる心、人々がなごみ、健やかに育つことを願う気持は今でもかわりません。心豊かに暖かく物事をみつめる一つの手がかりとして、かつてのむらのくらしの中で伝承されてきた行事を思いおこしながらお年寄りから聞きとり収録をしてみました。
茶の間の話題にしていただけたら幸いです。
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一月一日
初詣り
大みそかの夜十二時を過ぎると家中みんなでお宮さんへお詣りにいった。氏子総代さんがいて、御神酒を一杯いただいて帰った。
元 且
一日から三日まで毎朝雑煮をたべた。かけ葉や油揚、とり肉、緑葉など沢山入れた。「ノタ」といって、かぼちやの実、くるみ、えくさなどをすり鉢でよくすって、さとうを入れて餅の汁で少しのばしてどろっとしていて、のたをかけたがあまくておいしかった。(かけ葉は野沢葉の小さいものを干しておいて、それをゆでて小さくきって丸めておく)
マメと柿とクリをたべて、まめで(達者)くり(くりまわし)かき(しんしょを)まわせるようにとたべた。
ほしこも正月のごちそうにあった。
親もとや近所へ年始にいったが、さざれを持っていった。
正月三カ日は、いろりに足を入れちゃいけなかった。足を入れると「カラスが苗間をこねる」といわれた。
元旦に朝寝をすると、一年中朝寝をするようになるから、早く起きろと親に言われたっけ。
十時前は掃除をするな、福の神を掃き出してしまうからといったもんだ。
一月二日(初夢)
しょうじ紙に「ながきのとおのねふりのみなめざめなみのりふねのおとのよきかな」と書いて、舟の型にたたんで枕の下へ入れて寝た。
仕事はじめ
仕事始めの日でおとっあ、おっかさは朝暗いうちにおきてわら仕事をした。
縄をなったり、田植え時の苗をしぱる「苗で藁」をつくることに決っていた。(土間のじょうべ石で藁をはたき、それを四〇cm位の長さにきって束ねておいた)
おっかさは針仕事もした。子供はかきぞめを書いた。
かじやさんは、ふいごはじめの行事として神剣はかじ場の柱に打ちつけて保管し、でき具合を前年のと比べて腕前が上っているかどうかを知る目安としていたようです。
一月三日(ねずみの年取り)
土蔵や物置に上げてあるおかざりの所へ、夕方御飯を盛って上げる。一月七日(七草がゆ)
七草といってあずき、大根、もちを入れたおかゆを朝だべた。[七草ナズナ、とうでの馬が日本の国へ渡らぬうちにストトソトントン]とうたった家もあった。
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一月十一日(蔵開き)
朝早くおきて、土蔵や物おきの戸を開けた。大晦日に上げたおかざりを全部おろす。
一月十四日(ものづくり)
十四日年取りといって鮭やぶりのごちそうをたべた。この日はお母さんの所へよばれていく日ともいった。
物づくりをした。米の粉をこねて、まゆ玉、きうり、ナス、稲穂、もめん玉などをつくって天井いっぱいくらいの水木の枝にくっつけて、茶の間の天井にぶらさげた。こばんを買ってぶらさげた家もあった。もちをやいて稲の花のように小さくちぎってつけたりもした。
稲穂は豊年を願い、野菜は夏の豊作、まゆ玉はかいこの多くとれることを願ってつくり、下げたものである。小判は金まわりが良くなるようにと言う事のようである。
一月二十日の朝早起きしてこの品物をとり、やいて食べたりする。いつまでもつり下げたままにしておくと、夏仕事のくり廻しが良くないと言ふ。
道ろく神作り
お昼を食べて、一軒から一人づつ出て、道ろく神作りをしたな、てんでに豆からや藁、松かざり、ダルマ等を持って出て、山から木(若木)を切って来て、しん棒にし、ヂヂ、ババといって大小二つ作る。その若木の切れはしを貰って帰り、その夜お風呂を焚く時一緒に焚く、若湯といってそのお風呂へ入ると若返るといわれたもんだ。今はみんな勤めに出ているから十五日に作るようになったけど・・・・。
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一月十五日(あずきがゆ)
十四日の夜、米とあずきでおかゆをたいておいた。十一日におろしたおかざり餅を細かく割っていれて、塩味をつけた。十五日の朝あたためてたべた。
あづきがゆをあついといってふいてたべると田植時に大風が吹いてこまるから、いけないといわれた。
柏原久保志げさん(八十一才)
あずきがゆをちゃわん一杯残しておいて十八日におかゆをたいた中へ加えて、くりの木やももの木などの成り木の木の割れ目にくれた。いっぱい実がなるようにということだった。
あずき粥は若枝を山からきってきて、それで小豆を煮た。そうすると若返るといわれた。あずき粥の中に供餅を入れて塩味でたべるんだよ。そして残ったものを十七日にたべる習慣があった。なり物の木に少しそれをまくと果物などがいっぱいとれるといわれて一生懸命にまいたもんだ。小豆粥は一升か二升位つくった。
どんどやき
夜はむら中の家がどんどやきにいった。もめん玉、するめ、餅などを持っていって焼いて家中でたべた。この餅をたべると一年中風邪をひかないといったが、真黒にやけた餅だった。子供は書き初めをもやした。上手なほど高く舞いあがるとよろこんだ。松かざりなども燃やした。
どんど焼きが終ると村の当番の家へみんなで集まってきて、道祖神をやいた残りの木をもってきて、薪にきり、オキ(火)をつくり鉄の皿をオキの上において真赤にやいて、その中に小豆を二粒くらい入れ、その年の作柄などをうらなった。皿の中の小豆がよく動いたり、皿の外へとび出す程よいといわれ、よくない時には動かない。
子供達は「勉強がよく出来るか」大人達は「達者でくらせるか」、「赤ん坊がうまれるか」などと占いながらはやしたてた。
お茶や夜食を用意してもらって、夜遅くまで花札合せやトランプをして遊んだ。
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一月三十一日(みそか団子)
若い嫁さんが実家へ泊りにゆくんで、実家では米の粉で団子をつくってくれた。
あずき、ごま、いくさ、しょうゆたれなどでとにかくいっばいつくったさ、嫁さん達は、何しろ実家へ泊りに行くのが一番楽しみだった。
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二月三日(節分)
この日は夕方になると家の中から男衆が「鬼は外、福は内」と大声で言いながら、炒った豆をまいた。それでも黒豆はいけなかった。自分の年令の数だけ豆をたべると達者で暮せると聞いた。
節分年取りとも言って、鮭や芋汁を食べた。
二月九日(山の神)
炭やきなど山仕事をする人達が一日仕事を休んでおまつりをする日だ。
うるの米をたいてすりこぎでつぶして、三角の山の形にして棒にさし、えくさみそをつけてやいてたべた。山もちといった。
いろりの煥をいっぱいかいて、串にさした山餅を遠火であぶる。少しこげ目がついて来たころえくさ味噌をぬって又あぶる。
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三月十四日(やしょうま作り)
禅宗の人はみんな作ったもんだ。
米の粉を前から用意して置き、熱湯でしめし、手で握って蒸器に並べて蒸し、熱いものを時々水をつけながらよくこねる。手が熟いが、こねればこねるほどすべらかでうまいといってこねたもんだ。ゴマや豆を入れ、赤い食紅を入れたりしてね。それを棒に丸め、太いような箸を使って形を作って出来上り、仏さんに上げ、作らない家にやったりした。
三月十五日(やしょうまひき)
三月十五日のやしょうまひきにゃ学校の昼休み時間に古間の薬師から始まり、小古間、舟岳、針の木のおっしゃんや、庵主さんの所までやしょうまをひきにいづた。
アメゴムの長ぐつをはいて、着物とはん天で春の雪どけ道をとんでいくんだから、背中までハネがとんだ。一回もらうと又もらいたいので、はん天をひっくり返えして引きにいって庵主さんにおこられた。別に顔はかわらねえけど子供だなぁ。
学校へもどると授業は終っていて、今度は先生におこられ、廊下にたたされたもんだ。
今の子供はきかねえなんていうけど、おらも悪いことをしたもんだな。
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四月中旬〜五月上旬
春祭り
集落によって日は異るが、秋祭り程盛大にやらない。お客も招ばないが昔は神楽を出した。蚕神様のお祭とも言われている今でもふき流しを村のあちこちに立て、神主さんが来て、神事が行われる。
赤飯をふかして神様に上げる家が多い。
公会堂に村中の人が集まり、組総会を開いた後、祝宴となる集落が多い。 
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五月八日(すじまき休み)
お薬師さん
古間あたりでは舟岳の薬師さまのお祭りなので呼んでもらて遊びにいく人もあった。
柏原ではすじ蒔き休みといって、朝すじ蒔きをしたあと、一日ゆっくり休んで赤飯やそば、天ぷらをつくって祝った。そばと天ぷらは最高のごちそうだった。五月は畑や田.かいそがしかった。
雪消えのおそい年には間に合わないけど、ふつうの年はもぐさが五〜六cmになる。それをつんで重そうを入れてゆでて草餅をついた。一臼きりだから女衆の仕事だった。あんこもちをお重箱に十五コ入れるといっぱいになるくらいでかいもちだ。本家や分家へもっていった。
五月八日のもちは灸よりもきくといったけど、不思議に胸につかえなかった。
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六月四日(しょうぶ湯)
夜はどこの家でもしょうぶ湯をたって入った。しょうぶとよもぎを一緒に束ねてお風呂に入れたり、くず屋根の軒下にさした。魔除けになるそうだ。
しょうぶ湯に入ればお尻から蛇が入らないといわれた。
六月五日(一ケ月おくれの節句)
長男が生まれると実家や親分、近い親類の人達から鯉のぼりをもらった。
竹竿の先にそれをつけ、庭にたて柏餅をついて祝った。
六月中旬(田植え)
田植えは農家にとって一番の大仕事だ。殆んどええ田植なので、家の田植えの日なんか女衆は朝は早いし、こびりの用意やらで寝る間もない位だった。朝五升釜で二釜位御飯を炊いて子供の頭程ある大きなきな粉むすびをにぎってきり込みに入れ、風呂敷に包んで田ん圃まで背って行ったもんだ。このきな粉むすびは、実りの秋の黄色い稲穂にたとえて豊作を願ってのお祝い物だったな。昔は田植えの先にたって上代かきをやってたから、その田あかきさんなんかむすびのニつ位は食べたっけ、昆布、にしん、凍み大根等入れて田植え煮物も作ったな。

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六月十七・十八日(里姫まつり)
十七日はむらにある明神さんのお祭りだ。神主さんがきて祝詞をあげ、むら中の衆が集まって祝宴をひらいた。
落影の鍋山は黒姫山という伝説がある。
十八日の朝、暗いうちに八人位の男衆が法螺貝を吹き、「これから出掛ける」ことを村中に知らせてから酒一升をもって黒姫さんの池の水をもらいにいく。帰りは黒姫さんの池の水を頂いて帰り、村へ着くと又法螺貝をふく。その合図でむらの衆は鍋山に登り神主さんがき祝詞をあげ、今年も水田の水不足にならないようにおいのりをし、煮物、漬物を肴にお酒をのむ。するとこの日はたとえ三粒でも雨が降るといりから不思議だ。
棚橋千代子記
村中の田植えが終ると総代さんが田休みのふれを出して五日間くらいの農休みをとった。
田休みには二臼くらいづつ二・三回にわけて笹餅をついて親類にくばった。
うちの笹もちは北側の軒下につるさげて保存しておき、やいてたべたがいい風味がする。笹にあたっているところはかびない、昔の人はちゃんと知っていた。
六月二十五日(川の神の祭)
鳥居川の・氾らんで河原地籍の耕地は一年に何回も流された。

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八月十三〜十六日(お盆)
十三日に仏壇のそうじをして、かざりつけをし、夕方は仏様をお墓へ迎えにいった。
天ぷらをあげてごちそうした。
十四日にはおやきをつくった。あずきあんとなすあんの両方をつくった。小麦粉三升も四升も作るので、かご通しへ入れて井戸へぶら下げておいたっけ、今の様に冷蔵車あるじゃなし・・・丁度そばのさく切りの時季なので、おやきを作ってから畑へそばのさく切りに行ったもんだ。十五、六日は畑仕事は休んだな十六日は送り盆なので夕方早く御飯を炊いて仏さんに上げ、お墓へ送っていった。
お盆には盆礼といって、お嫁に出た人達が実家に挨拶に来て泊って行く人が多い。
八月二十三日(地蔵お盆)
赤川、柏原上町、小古間、石橋等地蔵さんのある所ではお参りがあり、小古間ではおどりがたって、みんなおどりに行ったもんだ。子供の夜泣きなんかお参りすると治るともいわれている。御馳走は特別しなかったが、おやきを作る家もあった。
八月二十七・二十八日(御射山まつり)
野尻湖に涼風が立つ頃、野尻の町のお祭りがある。これが御射山まつりだ。
農家では、丁度蚕のにわおきで忙しいが、野尻の町の人達はお盆中お客さんで忙しいおもいをしたが、このお祭には静かになった湖畔に出てゆっくり夏の終りをたのしんだ。
私が子供の頃は(昭和十年頃)着物に赤い三尺帯をしめて弁天様におまいりにいったもんだった。親達は蚕で忙しいので、ごちそうといってもお赤飯か笹寿しくらいだったか?、菊の葉や桑の葉を天ぷらにして食べたことを覚えている。
黒田ユリ子
風祭り七・八夜のお祭り
二十七日の夜は風祭りと言って村中の人かお宮に集り、二百十日が事なく過ぎるようにお参りをする。柏原、落合では御射山踊りが行われる。今も続いている。御馳走は特別やらない。
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九 月(秋祭り)
宵宮の夜は餅をついてあんこをかけ、なす、さつまいも、かぼちや、ささげの天ぷらをあげ、さけやますの塩びきを買ってごちそうをした。
魚を買ってくるのは男衆の仕事で、女衆はそれでおごっつぉをつくった。
又、むらの若衆が獅子を舞って家々をまわってくれた。親類の人達が大勢よばれてきた。
お祭りの朝はおこわを蒸して、お宮にあげたり、親類へくぱったりして、やったりもらったりしたものだ。
集落によってお祭りの日が違う。
九月十九日(秋祭り)
針の木荒井トヨ子さん(六十四才)
九月はおまつりの月で、あちこちで笛の音がきこえてくるので大好きな日なんだよ。ある人の句に「母亡くて何のふるさと秋祭り」というのがあるけど、やはり秋祭りの頃いちばんふるさとを思い出すね。
子供の頃のお祭りのごちそうは、まず天ぷらと赤飯だけど、なつかしい味は蜂の子ごはんだね。地蜂の巣をとってきて蜂の子を出してやおらかに炒りつけて、たきたてのごはんにまぶした味は忘れられない味だね。
お祭りのごちそうは天ぷらをどこの家でも必ずつくったっけなぁ。材料はするめ、さつまいも、なす、南瓜、そんなものかな。
黒田ユリ手記
それに夕顔のさしみ、貝のひれで煮物、お吸物はミョウガととうふ、それにこわ飯(赤飯)、お祭りによばれていくときはいい所でお茶、次は手拭いくらいだった。
さつまいもはここではとれないので、どこの家でも一俵(十五貫入)位買っておいて、秋のこびれに南瓜といっしょにふかしてたんぼへもっていったもんだ。
″祭りの赤飯はやったり、とったり″祭りにゃな赤飯たいて食べたり土産に持たせたりしたね。
今とちがって家でつくった緑葉(ナス、かぼちや、さつまいも、しその実)の天ぷらさね。油も菜種油で菜種を小布施、三水まで持っていって絞ってもらったもんだね。夕顔のさしみも家でつくったしょうゆで一味異ったものだ。
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正油
小麦を引き割ってむす
大豆をやわらかく煮る
こうじ菌をまぜて十八時間ねせる。
それから一晩ひろげておくと椛がかかる。
大豆一斗、塩一斗 田休みに仕込んで秋が終ってから一番しぼりをする。
原山ミヨイ記
昔はよそ村の近い親類はみんなお祭りにきたり、いったりしたもんだ。いつも六、七人はお客があった。お祭りには一番ごちそうをした。魚屋がうりにぎて、生さばやいかを煮付けたりコンニヤク、里芋、油揚なんかのざく煮、魚の吸物をつくった。天ぷらは宵宮の朝からきりこみ一つもあげたもんだ。次の朝は赤飯で神棚にあげたり、たべたり、又、おみやげに天ぷらと一諸にもたせてやった。
小林三枝子記
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九月十八日(お彼岸) 諏訪の原黒田定さん(八十四才)
秋祭りが終った頃、夜なべに母はよく米の粉を石うすでひいていた。子供達が交替で手伝った。お彼岸だんごの粉の用意だった。彼岸の入りの日になると丸く平べったいお彼岸だんごをつくって仏壇へ供えた。
たべても味がないので少し塩味をつけたらと母親にたのんだ
ら、母は縁気が悪いから塩を入れないのだと言っていたのを子供心に覚えている。どういう訳なのかいまだに疑問である。
又、お中日には、おはぎか餅をついて供えたように記憶している。
黒田ユリ子記
浄土真宗のお彼岸だんごは真中がたいら、禅宗はまるいだんごだ。彼岸の入り、お中日明けにもだんごを仏さんへあげた。
家の若いもんが忙しがって仏さんにだんごをあげないと、帰っていた仏さん同志で話すんだって。「ガキ(子供)をいろりへくべてきた」となんまさん同志が話していると、おらのおっかさんから聞かされていたよ。だから忘れないようにしてだんごをあげないと。
服部秀子記
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十 月 (鎌あげ)
稲刈りが終ると、刈り上げのぼた餅といって、ぽたもちをつくる。このぼたもちは新あずきの塩味がうまくし又、新えくさの摺ったのをつけてたべるんだが、ほりたての葱のみそ汁で、食べるのは何と言っても、秋の味覚さ。

こきばしあげ(扱き箸上げ)
稲こきが終ると、こきばしあげといって、新芋を掘ってとろろ汁をつくる。
新米に芋汁、それに厚切りの大根煮物にえくさをすって入れた煮物などをごちそうした。長芋は家でつくっていない人は買ってでも必ずつくってたべたっけ、昔の人は行事食は手を抜かなかった。 稲の刈りあげのぽたもちはさとうを少し入れるだけだったけど、それでもうまかったなあ。
さとうのないうちは、あんこにさつまいもをつぶして甘味を入れたもんさ。
原山ミヨイ記
十一月+日(大根の年取り) 諏訪の原黒田定さん(八十四才)
別に大根が年をとるわけじゃないけど、余り早く大根を掘るとよく実がいらなくて、うまくないと昔の人は言ったんだよ。
十一月十日すぎたら、収穫して、大根ぐらに入れる。浅く掘った丸い穴に大根を重ねて、まわりから土を厚くかけると山のようになる。その上から藁の頭をしばって上からマントのようにかけ、長い棒をたてて、雪がふってもわかるように目印にするんだよ。きづ大根やまたさき大根はみの干しや切り干し大根にして長い冬の間のおかずにすると甘味があっておいしいもんだよ。
黒田ユリ子記
かかしが農作物の番をしてくれた御礼ということでネお前さん、ぼたもちをつくってあげたんだよ、勿論餅米もなにもかも手造りさネ、造った量は少なくて一升、小豆あん、いくさ、ごまなどいろいろ造って、案山子と神棚、仏壇に必ずあげたんさ値段だって?、昔の事だから、はっきり覚えていないけど……昭和七、八、九年頃男が一日労働して七〇銭、女は四〇銭、米は一升十六銭だったな、小豆と米と同じ値段だったと思うよ。布団の木綿布地か一反五〇銭だったから、女が一日慟いても一反の布地が買えなかったわけ………
今では農作業すれば、一日四、五〇〇円〜五、〇〇〇円だろやすやす二反は買えるんじゃないの。
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かかし上げ 諏訪の原飛田つるのさん(七十四才)
秋中お世話になったかかしは、田んぼからあげてきてしまう。かかしあげの日はぽたもちとおそばをつくってあげた。
そのいわれは、かかしがおそばで繩をなって、ぽたもちを背負って天へ昇っていくので、いも汁のようなすべるものはかかしがすべって天へいけないからと、むかし親に教わった。
畑やたんぽから、かかしをかついできて、ぽたもちをつくってあげ、労をねぎらった。そのあと家中でぼたもちをたべたっけ、これもほんとにうまかった。
かかしさんが背負って帰るのに、ごはんじゃこぼれるのでぼたもちにして、うどんを背負、縄にしていくんだとさ。
十一月二十日(えびす講)
甘酒をつくってみんな(近所の人)に飲みにきてもらった。椛は五升くらい買ったもんだ。
商売をやっていたからつくったけどよその家ではあんまりつくらなかった。
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十二月八日(かな山鞴まつり)注(ふいごまつり) 諏訪の原萩原秋美さん(六十三才)
鍛冶屋の多い古間の辺りでは、十二月八日をかな山といって一日仕事を休み、ふいごもやすませるんだよ。
甘酒をつくったり、食べ頃につかった。野沢菜の漬物を山程出して大根煮物やささげ豆などを煮て、ふだんトンテンカンと音がきこえて迷惑をかけている。近所のしょうをよんでお茶をのんでもらうんだ。昔の人は、この日を「荒れ日」といっていた。毎年吹雪になることが多かったんだよ。
十二月二十一日(冬至)
冬至かぼちやといって、必ずかぽちゃをたべた。大抵の家では煮物にしたが、ていねいな家ではかぼちゃとあずきでかぽちや粥をつくった。かぼちやに年をとらせると娘が嫁にいくのがおそくなるといって、この日までにかぼちゃは全部たべてしまった。
十二月二十八日(暮の餅つき) 柏原久保シゲさん(八十一才)
九日餅は縁気がわるいといって二十八日か三十日についた。いい餅(米だけ)は少なくて、粉餅(しいな粉)や栗餅を多くついた。 正月三日くらいまではいい餅を雑煮にしてくったけど、粟餅や粉餅はまずくてやだかった。
お正月の餅をつくんだけど、その家によってつく日が違うんだよ。今みたいに何でもある時代じゃないから大人のこびり、子供が学校から帰ってくると腹ごしらえに餅だろう。四升むしで十日〜二十日くらいむしてついたんだ。その家の人数で多少はちがうけど、一俵なんて簡単なもんさ。アワ、キビなどをまぜてついたもんだ。エー、カピないかって、かびるまで餅はないよ。第一凍みるし、小人や大人も毎日たべて、アラレにしたし、よくたべたもんだ。
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十二月三十一日(年取り)
この日はふだんつかっているおぜんやかま、なべ、茶わんなどをきれいに洗ったり、大掃除をして年取りをした。
年取りの魚は塩引き鮭、かずのこ、ごぼうの太煮、大根なますなどのごちそうだった。一人一人のお膳にみかんが一つづつくばられた。
黒田久美子記
鮭をやいて、大根を丸く切って面とりにして、丸くいくようにとごぼうやにんじんを入れて煮た。
青柳豊子記
柏原久保シゲさん(八十一才)
正月中のごちそうをつくる日なんだ。今みたいにおせちとか何とかいろいろないもんで、自分の家でとれたやさいが主なもんで、煮物の中へ大根、人参、ごぼう、里芋、ちくわ、こんにゃく、こんぶ、あげなどを鉄の大鍋に入れてぐつぐつ煮た。それに塩びき、かずの子、天ぷら、豆の甘煮くらいだった。魚は大秤でかついで売りにきたのを買った。 油はなたねを作った人はしぽってもらったけど、ない人は、「かつら屋」さんへいってかった。釜が二つ並べてあって、その下に杓子がおいてあって、それで一合づつ計ってくれた。
おかざりのかざりつけ
神棚、仏壇、天神さん、火の神様、水神様、蚕の神様、ゑびす様、土蔵、物置の穀箱の上等に飾った。一番下に大きな餅、その上に小さな餅、一番上にみかんの順にかざりつけた。